介護ヘルパーから医師へ~地域医療への想いの源泉~
高校卒業後、臨床検査技師、介護ヘルパーを経て医学部医学科に編入した異色のキャリアを持つ医師・吉住直子先生。2022年、栃木県下野市で訪問診療・往診を中心に行う「れもん在宅クリニック」を開業するまでの歩みや想いについてうかがいました。
吉住 直子(よしずみ・なおこ)先生 れもん在宅クリニック 院長 訪問看護ふらみんご 代表取締役 1982年 栃木県足利市に生まれる 2005年 群馬大学医学部保健学科検査技術科学専攻卒業/臨床検査技師として自治医科大学附属病院検査部に就職 2006年 介護ヘルパーの資格を取り、有料老人ホームに住み込みで働く 2009年 群馬大学医学部医学科に編入 2014年 群馬大学医学部医学科卒業/自治医科大学附属病院で初期臨床研修 2016年 自治医科大学呼吸器内科医局入局 2019年 JCHOうつのみや病院にて勤務/任意団体おおるり会を発足 2022年 れもん在宅クリニック開業 2023年 訪問看護ふらみんご開業 |
目次
臨床検査技師から介護ヘルパーへの転身
―まず、臨床検査技師から介護ヘルパーに転身された経緯についてお聞かせください。
学生時代は化学が好きで、手に職をつけたかったこともあって臨床検査技師になりました。医療の道を志したのは、肝臓がんを患っていた父の影響もあると思います。私が中学生のころから、父は入退院を繰り返していたんです。
病状が悪化してきたのが、私が自治医科大学附属病院の検査部に就職したころのこと。父の死を目の当たりにしたとき、「自分は医療従事者なのに直接的なことは何もできない」と強く感じました。身近な人が亡くなるのも初めての経験でしたから、「人はいつか死ぬ」という現実を突きつけられた気持ちでしたね。
これを機に、どんなに医療が進歩しても人が死なないようにできないなら、どう亡くなるのか、どう最期まで生きるのかに関わりたいと思うようになったんです。それで、お看取りを見据え、最期までその人らしく楽しく過ごすためのお手伝いができるのは高齢者介護だと考え、介護ヘルパーの資格を取りました。
介護ヘルパーは天職。大変だけど面白い
―ヘルパーステーションなどに就職なさったのですか?
いえ、介護施設に住み込みで働くことにしました。というのも、臨床検査技師からヘルパーに転職すると母に話したら「せっかく大学も出て、資格もあるんだから臨床検査技師を続ければいいでしょ」と猛反対で。話が決裂してしまったので、当時、母と暮らしていた家を出たんです。
―なんと…! 職種とともに生活環境も大きく変わられたのですね。
そうなんです。築100年くらいの古民家を使った介護施設で、利用者さんと一緒に暮らし始めました。認知症が進んでいて大きい施設では預かりきれないような方も含め、利用者さんは9人くらい。介護ヘルパーの在籍数も9名ほどの施設です。
利用者さんのお話を1日中聞いたり、徘徊に付き添っていたらスタッフ共々迷子になって迎えに来てもらったり、夜に大声を出す方につられて全員起きてカオスな状態になったり。そういうことを大変だと嘆くのではなく、面白エピソードとしてみんなで笑えるような雰囲気でしたね。大変だけど楽しい、面白いという感じでしょうか。
利用者さんの人生に触れ、深く関われることが楽しくて、一生やっていきたいなと思いました。入院患者さんの話を聞く暇もなく採血をしていた大学病院の臨床検査技師時代からは、毎日がガラリと変化しましたね。
―利用者さんと介護ヘルパーのみなさんの笑顔が目に浮かぶようです。
利用者さんの数が少なく、一人ひとりに対して個別に対応できていたのがよかったのだと思います。胃瘻で経口摂取できない方にも通常の食事を用意して、においを味わっていただこうという考え方の施設でしたから。
よりよい介護と、医師の判断は切り離せない
―充実した毎日の中で、医師を目指そうと思われるにはなにかきっかけがあったのですか?
ひとつは、その施設で出会った100歳のおばあさまとのことです。ご本人もご家族も施設を気に入って、ここで最期まで暮らせたらいいなとおっしゃっていました。少しずつ食事が摂れなくなってきて、みんな施設でお看取りをする心づもりをして、いよいよ呼吸が止まって…というとき。施設と連携していた病院が、外来診療外の時間だったんです。
事前に時間外の対応について明確な取り決めをしておらず、往診医に連絡すると「いま呼吸が止まっているなら、救急車を呼んで病院で死亡確認してもらってね」と。救急車で病院に運ばれて、本人も家族も望んでいない心臓マッサージをされている様子を見て、「これは誰のための何の行為なんだろう」と思いました。
往診に来て死亡確認するのが難しかったとしても、臨機応変に「数時間後、診療の時間に往診に行くからちょっと待っててね」と言ってくれればみんな安心して待てたかもしれない。施設でお看取りできたらみんな幸せだっただろうに。そういう気持ちがぬぐえませんでした。
―医師でなければできない行為への課題感を持たれたのですね。
そうですね、すごくもどかしくて。それからもう一つ、腎臓に疾患のある90歳を過ぎたおばあさまが検査入院をすすめられて、1週間ほど入院したことがありました。杖をついて歩いて病院に行ったのに、退院したときは寝たきりになっていて、そのままあっという間に亡くなられたんです。腎臓のことだけを考えたら必要な検査入院だったかもしれないけれど、そのおばあさまの人生にとって本当に必要だったのかと考えてしまいましたね。
仮に介護ヘルパーが「検査入院はあまり重要ではないのでは」と提言したとしても、医師が必要だと言えば家族は疑いを持ちません。介護ヘルパーが日々どんなに頑張っても、月1回・2回来る医師によって、人生の終い方も治療方針も変わってしまう。そう思い知らされることが重なり、よりよい介護をするために理解ある医師を探そうと思いましたし、そういう医師がいないなら自分が医師にならなければと思ったんです。
長く生きるための医療と患者さんの願い
―吉住先生は介護ヘルパーの仕事を続けながら勉強し、医学部の編入試験に一度で合格されました。当時の想いを聞かせてください。
本気で認知症高齢者介護に関わっていくには、介護ヘルパーを何十年続けても力不足だろうと思っていました。何年かかったとしても医師にならなければという想いでしたね。
―医学部での学びや大学病院での研修を通じて、お気持ちに変化はありましたか?
まずは「1秒でも長く生きることにこだわる最先端の医療」を学ぶ必要があると考えるようになりました。そういう医療を知らないと、ご本人の希望をくみ取るような「引き算の医療」はできないと思ったので。
大学病院では「大学病院の医師」として、生きることにこだわる医療を提供していましたが、本人のQOLよりも救命を優先する医療現場で、思うことはたくさんありました。
とくに印象的なのは、間質性肺炎で胸腔ドレーンが入っているおじいさまとのこと。
急性増悪を起こしているものの、ご本人は家に帰りたいとおっしゃる。1秒でも長く生きることにこだわる医療者の立場からは「ドレーンが入っているし、急性増悪も起こしているから帰れません。せめてドレーンが抜けたら、外出外泊なども含めて家に帰ることを考えられますよ」としか言えないんです。でも、治療をしても容態は悪化していく。おじいさまは「CTなんて撮らなくていい」「とにかく家に帰してほしい」と繰り返す。そうして亡くなる数日前には「俺を家に帰さなかったことを、ずっと覚えていてね」と言われたんです。
こういう方を受け入れる医師にならなければと強く感じました。
医療依存度の高い患者さんを受け入れたい
―自治医科大学附属病院の近くにクリニックを構えたのには理由があったのでしょうか。
通常は在宅に切り替えるのが難しいような、医療依存度の高い患者さんを受け入れたいと思って、大学病院と密に連携できる立地にしました。胸腔ドレーンが入っている方も、輸血が必要な方も受け入れています。ご本人・ご家族に帰りたいという思いがあるなら、なるべく帰れる環境を整えたいというのがポリシーです。
また、私は現在も自治医大の呼吸器内科に非常勤医として籍を置いています。おやっと思うときは、専門の先生に相談させてもらうこともあります。
―先生は、訪問看護ステーション「訪問看護ふらみんご」も運営していらっしゃいますよね。
はい、訪問看護ステーションを併設していることで、訪問看護師と密に交流できます。患者さんは、医師には自分の思いや状況を言えないけれど、看護師には言えるというケースがあります。結果としてより質が高く、満足度も高い医療が提供できるのではないかと考えているんです。
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※本記事は、2024年1月の取材時点の情報をもとに構成しています。
取材・執筆・編集:YOSCA医療・ヘルスケア